『忍者ハットリくん』、『怪物くん』、『プロゴルファー猿』、『笑ゥせぇるすまん』などの人気漫画家の作者である藤子不二雄Aさん。
最初から漫画家として活動していたイメージがありましたが、実は高校卒業後に就職したいたのです。
今回は、藤子不二雄Aさん若い頃の話について調べてみました。
藤子不二雄Aは若い頃に新聞社に就職していた!
藤子不二雄Aさんは、小学校時代から漫画家を志しており、高校生のときに毎日小学生新聞でデビューしています。
ただし、高校卒業後は漫画家として活動するのではなく伯父が専務を務める富山新聞社に就職。
新聞社では、学芸部と社会部で似顔絵やインタビュー記事を担当していたようです。
高校生のときにデビューしていたので、卒業後すぐに漫画家として活動している思っていましたが、そうではなかったようですね。
- 本名:安孫子 素雄(あびこ もとお)
- 生年月日:1934年3月10日
- 出身地:富山県
- 職業:漫画家
- 座右の銘:明日にのばせることを今日するな
- 主な代表作:『オバケのQ太郎』『忍者ハットリくん』『怪物くん』『プロゴルファー猿』
新聞社を退職し漫画家をめざすきっかけは藤子・F・不二雄
藤子不二雄Aさんと藤子・F・不二雄さんがコンビを組んでいたことは有名です。
この2人の出会いは、小学生のとき。藤子不二雄Aさんが転校した先の小学校に藤子・F・不二雄さんがいたのです。
- 本名:藤本 弘(ふじもと ひろし)
- 生年月日:1933年12月1日
- 出身地:富山県
- 職業:漫画家
- 主な代表的:『オバケのQ太郎(共著)』『ドラえもん』『パーマン』『キテレツ大百科』
運命とも思える2人の出会いですが、この出会いが藤子不二雄Aさんの人生を大きく変えることになります。
藤子・F・不二雄さんは高校卒業後に、お菓子会社に就職していました。
ところが、仕事が合わなかったことや作業中の事故や手にケガを負う可能性(漫画への影響)があることが原因で入社後すぐ退職。
退職当時は藤子不二雄Aさんに
俺は家で漫画を描き続けるけど、おまえは新聞社へ勤めていろ
と言っていたそうですが、新聞社に務めて2年目の夜、藤子・F・不二雄さんから
藤子不二雄Aさんがどのような人物だったのkあことについて、若い方は知らない人の
新聞社をやめて一緒に東京へ出ようよ
と誘われたそうです。
安定したサラリーマン生活や好意を抱いていた後輩社員がいたこともあり、新聞社に未練があったと後に方っています。
新聞社を辞め東京に上京する決意を固めたのは、母親の一言だったそうです。
母親に言われた通りにしようと思って相談したところ
好きにしなさい
と言われ上京を決意。
当時社長になっていた伯父には激怒されたそうです。
藤子不二雄Aの若い頃といえば「トキワ壮」
2人は漫画家を目指し、1954年6月に上京します。
最初は親戚の家に住まわせてもらっていたのですが、同年10月頃に「トキワ荘」に引っ越すことに。
きっかけは当時トキワ壮に住んでいた手塚治虫さん。
手塚治虫さんがトキワ壮から出ることになり
入るか?
と言われ、住むことになったそうです。
手塚治虫さんは、お金がなかった2人のために敷金を肩代わりしてくれたそうです。ちなみに、敷金は6年かけて返済したとのこと。